足利義輝の野望

足利義輝
足利13代将軍。史実での敵である三好長慶の打倒を目指す。統率は高いが知略22を根に持っている。
細川藤孝(細川幽斎)
足利将軍家の重臣。足利義輝を補佐し、奔走する知恵者。史実ではのちに大名となり、熊本細川藩の祖となった。

応仁の乱(1467-1466)から戦乱が続くこと幾年。
足利家の13代将軍であった足利義輝は、征夷大将軍という地位にありながらも、その威光は微かなものであった。
先代将軍である義輝の父・足利義晴も、管領・細川晴元との戦いに敗れ、京を追われて亡くなったのである。
義輝は若くして父から将軍職を譲られ、細川晴元ともなんとか和睦して京に戻った——。

「与一郎、細川与一郎藤孝はおらぬか」
細川与一郎藤孝とは、足利義輝の側近である。藤孝の藤は、義輝の別名から一字をいただいたものである。
歳は義輝よりも二つ上であり、まだ若いが、才覚に富み、武芸、兵法に通じながら、風流の人でもあった。
「はは」
小姓の呼び出しを受け、藤孝が参上する。
「今日は、我が領内と周辺大名について聞きたい」
平伏を解いて、まっすぐに見据える。いつもながらに厳しい義輝の顔が、今日は意味ありげになおさら厳しかった。

「我が領国は、山城の室町御所と、伊賀の福知城の周囲でございまする」
「ううむ、やはり我が足利家の権威は弱いといえるな」
「しかしながら、義輝様は征夷大将軍にございまする。二国を勢力下におき、れっきとした大大名でございましょう。
また、義輝様が各地の大名に将軍家の威光を知らしめておりますので、名声や友好も高うございます」
「うむ、奥州の伊達殿においては、世継ぎ争いの調停もいたしたな」
——足利義輝は1548年に、伊達稙宗と伊達晴宗の間で起こった「天文の大乱」の仲裁をしていた。
「その甲斐もあって、我が将軍家は多くの大名家と同盟を結んでおりまする。各地の特産物なども贈られてきましょうぞ」
初期において、足利家はほとんどの建物の「開発」ができるようになっている。
これも義輝が将軍についてからの積極的な外交の賜物だった。

「しかし、やはりうるさいのは三好であるか……」
「ではございますものの、三好と対抗するのは至難にございまする。三好家は圧倒的な勢力を持っておりますゆえ。
史実では上様を謀ったのは三好長慶でございまする。松永久秀という武将も抱えておりますゆえ、ここは後回しでございます」
「ううむ、やはりか。ゲーム上、私の基本知略が22しかないのも奴のせいというもの。
政治も50しかないが、各地の大名に、足利将軍家の存在を知らしめた功はこんなのものなのかのう」
「げ、げーむにございますか。大航海時代2ではそのように話す町娘がおわしましたが、十年以上前の作品を持ち出すのはいかがなものかと……」
「冗談じゃ」

「それはそうと、藤孝、我が足利家の財力はやけに弱くはないか」
「はは、大大名ではありますものの、我が領地は山城と伊賀。いずれも狭い国にございますゆえ」
「しかし、日の本の中心は京であろう」
「……応仁の乱以後、京は荒れ果てたままでございまする。この時代には公家や天皇家も困窮し、各地の大名に援助を求めたほどでございまする。
小京都などと呼ばれるところは、そういった京の貴族が移り住んだ町。その人脈を用いて朝廷に金品を援助し、官位を手に入れる大名も多うございます。
——さらに山城国はまだしも、伊賀国は山がちな所ゆえ、田畑も少のうございまする。
伊賀は大名とよばれる者が少なかったから支配下にあるだけで、我が家が治める地は貧しいのでございます」
「つまり、まずは城下を豊かにせねばならぬということだな」
「はは。左様にございます」
「よし、藤孝。私は天下に足利の威光をあまねく知らしめたい。他家と戦い、三好と戦うだけの力をつけることにするぞ」
「ご立派にございまする。では、私はさっそく市井に『建設』で投資し、京の復興を手伝いに参りまする」
「うむ、頼んだぞ」